永禄3年(1560年)5月19日、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取りました。
それまで一地方の弱小武将の1人でしかなかった信長が、これを機に全国にその名を轟かせ、天下統一に向けて進んでいきます。
桶狭間の戦いが行われたのは5月のことですが、その年の1月に織田勢と今川勢がある地域を巡って、戦を行なっていたことはあまり知られていません。
その地域とは尾張東部、三河との国境にある「瀬戸」です。
瀬戸は古くから焼き物の産地で有名な場所です。
信長が父、信秀から織田家を継いだ頃、瀬戸を支配していたのは今川家でした。
実際にこの地にあった品野城を守っていたのは、当時今川家の支配下にあった松平家の武将・松平家次でした。
品野城の戦い
この瀬戸の地を舞台とした戦は2回に分けて行われました。
まず信長は桶狭間の戦いの戦いの2年前に当たる永禄元年(1558年)3月、瀬戸の奪還を目指し戦を仕掛けます。
この時はコテンパンにやられてしまいます。まだまだ若造だった信長は三河武士の実力に歯が立たなかったんですね。
その後信長は尾張国内の織田家統一に向けて戦を重ね、武将としての実力をつけていきます。
そして最初の戦から2年後の永禄3年(1560年)年1月、改めて瀬戸に攻め入り、瀬戸の地を支配下におさめることに成功します。この時も相当な激戦が展開されたようで、この戦に勝利したことは信長にとって大きな喜びであったようです。
信長が瀬戸にこだわった理由
信長が瀬戸にこだわった理由。
それは瀬戸で生産される焼き物の存在に間違いないでしょう。
祖父の時代から津島や熱田の港を支配下に収め、地方の小国でありながら莫大な収益を上げて繁栄を誇っていた尾張で育った信長は商業の重要性を幼少の頃から肌で感じていたはずです。
当時国内唯一の施釉の焼き物であった瀬戸の焼き物の商品力に目をつけていないわけがありません。
瀬戸山離散
一方、同時期の瀬戸では「瀬戸山離散」という事象が起こったと伝えられています。
瀬戸山離散とは瀬戸の地から焼き物職人が出て行ってしまったという事象です。
要因には様々な説が上げられていますが、そのひとつに戦乱を逃れるためというごもっともな説があります。
信長が瀬戸の地を支配下に置くためのこの戦が原因だとすれば、信長にとっては本末転倒というか、やりすぎちゃったという感が否めませんね。
瀬戸を統治下に治めた後に、信長は瀬戸に職人を呼び戻し、瀬戸の窯業を保護し奨励します。
桶狭間の戦いに向けて
永禄3年(1560年)年5月、今川義元が兵を挙げて尾張に攻め込みます。
桶狭間の戦いについて、以前は今川義元が上洛を目指す途中の出来事と言われていましたが、現在では、織田勢との領土の境目にある今川勢力の城を救援するために尾張に侵攻したという説が主流のようです。
今川勢が侵攻してきた際、信長はその進行方向が明らかになるまで拠点である清洲城で待機していました。
5月12日に地元・駿府を出発した今川勢は、5月17日に尾張攻略の拠点として沓掛城に入りました。
結果として今川義元は沓掛城から西に進んだ桶狭間で織田軍と衝突し敗れたのですが、もし今川軍が沓掛城から北に向かって進んでいたら、その先にあるのは瀬戸です。
2万5千といわれる今川軍に対し、信長軍の戦力は数千と大きく劣っていました。
限られた戦力を分散させては勝ち目はありません。
織田信長は今川勢が瀬戸を奪還するために北上する可能性も視野に入れて、ギリギリまでその動向を見極めようとしていたのではないでしょうか。