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信長

本能寺の変の際、明智光秀に味方した武将・水野守隆

信長

天正10年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変は、当時勢いの絶頂にあった織田信長を筆頭部下である明智光秀が暗殺するという戦国時代最大の下克上です。

また、討たれた信長の遺体は見つかっておらず、首謀者である光秀も明確に動機を語る前に命を落としており、謎の多いミステリー事件ともいえます。

光秀が信長を討った理由については怨恨説、野望説、前途不安説、信長の非道阻止説の他、朝廷や足利義昭などの黒幕説など様々な説が考えられています。

ここでは水野守隆(みずのもりたか)というマイナー?な武将にスポットを当てて、本能寺の変の要因を妄想してみます。

水野守隆とは

そもそもこの水野守隆がどういう人だったかというと、もともと水野氏は尾張・知多地域を発祥とする武将であり、守隆は織田信長の下で桶狭間の戦いで初陣している古参武将です。

その後も佐久間信盛の配下で本願寺攻めや長島攻めに参加するなど、数々の武勲を上げて、守隆は3代目常滑城城主となります。
しかし、本能寺の変の際には、明智光秀に味方したため城を没収され隠棲しました。
隠棲後は、「監物入道」と名乗り京都に滞在。連歌や茶道をたしなむ文化人として、千利休、津田宗九らと親交を結び、出身地である常滑で作られる常滑焼を茶人らに紹介しました。
しかし、明智残党として、北野の大茶会にて豊臣方に見つかり、慶長3年(1598)4月21日、京都において自害しました。

常滑焼の産地

水野守隆が生まれ育った現在の常滑市は愛知県の知多半島にある中規模都市。
現在は中部国際空港などがあり、中部地区の玄関口として新たな発展を迎えようとしています。
古くから窯業の産地として、瀬戸・信楽・越前・丹波・備前とならび日本六古窯のひとつとされています。
朱泥(しゅでい)の急須や土管などが有名です。守隆も常滑焼を奨励し、普及に尽力していたそうです。

常滑と織田信長

常滑は信長の出身地である尾張の国の一角にあるわけで、信長の支配下にありました。
水野家も織田家の家臣に当たります。1574年、織田信長は尾張領国の中で瀬戸以外に窯を築くことを禁ずる禁窯令を発令しました。
このことによって常滑焼の生産は壊滅的な打撃を受け、その後長い間、常滑焼の生産は停滞することになりました。
常滑焼を盛り上げていこうとしていた守隆にとってはショックであったに違いありません。

水野守隆が明智光秀に味方した理由

光秀は信長討伐の計画について、斎藤利三など数名の重臣以外には伝えてはいませんでした。
そこで光秀は信長を討った後に、関係のあった武将に味方になるように要請する書状を送りました。
とはいえ、当時武将の頂点に存在した信長を討った光秀に対し味方すると即答する武将は稀でした。
婚姻関係にあり長年盟友関係にあった細川藤孝でさえも中立的姿勢をとり、光秀を味方するとは言いませんでした。

そんな武将が大半を占める中、水野守隆はいち早く光秀の味方となることを宣言し、山崎の戦いに明智勢として参加しました。
織田家臣団の中で、主に明智光秀配下にいたわけではない守隆が、明智勢につくと速やかに判断できたのは明確な理由があったからはずです。

光秀と守隆、両者にとって信長の存在、或いは政策が不都合であった、そして信長を射つことについて両者共通のメリットがあったからこそ、水野守隆は明智光秀の味方をしたのだと考えることに、論理的な不自然さは感じられません。
そこで、水野守隆からの視点から信長への不満を考えると、それは1574年の禁窯令のような常滑焼を巡る産業、商業政策にあった可能性が高いと思われます。

さらに、常滑焼を繁栄を抑えた信長と、常滑焼を盛り上げたかった守隆という対抗図式があったとするならば、守隆と同じように、光秀にも産業・商業政策に関して信長と意見の対立があったのではないかと妄想するわけです。
ここに本能寺の変の謎を解くカギがあるではないか考えています。