キタマサブログ
仕事術、心理学、マーケティング、焼き物、歴史などについて語ります。
信長

織田信長は聖徳寺会談で斎藤道三に瀬戸物販売ビジネスへの協力を申し込んだ

信長

信長は1549(天文18)年4月、尾張と美濃の国境にある聖徳寺で義父である斎藤道三と会談します。

信長は生涯を通じて瀬戸物を売りたかっただけ」説を持つ私は、この会談は信長が道三に対して、瀬戸物を京都で販売したい、一緒にやりましょうと、ジョイントベンチャーの提案した場だと思っています。

瀬戸物販売ビジネスが尾張はもとより、美濃の国力を豊かにすることにつながるとプレゼンをしたのでしょう。
実際、この後に美濃の東部、東農地区は瀬戸から移動した陶工たちにより窯業が盛んになります。
東農地区で焼かれた焼き物も「瀬戸物」として販売されて、国内市場を席捲することになるのです。

道三は小説「国盗り物語」にあるように京都の油売りの身から美濃に移り、下剋上を重ねて戦国大名となりました。
商売経験に裏付けられたビジネスに関する嗅覚は人一倍優れたものがあったのだと思います。
そのことは稲葉山城の城下町にいち早く楽市楽座を開設したことからもうかがえます。

領国の運営においてのビジネスの有用性を認識していた道三にとって、信長の瀬戸物ビジネスのビジョンに魅力を感じたのだと思います。

会談後、道三は「無念なことだが、将来自分の子たちは信長の部下になるだろう」と発言したと言われています。
これは信長の描く瀬戸物販売ビジネスのビジョンにほれ込んだからこその発言だと推察します。

とはいえ、いくら信長の提案に魅了を感じたとしても、
道三がすぐに信長の要望を認めることはなかったでしょう。

娘婿でもある信長に条件を出したと思います。

その条件は、
①尾張の統一
②瀬戸を支配下にする
の2つです

当時尾張は織田家が分割して支配し、覇権争いをしていました。これをまずは統一することが最優先。

さらに、これまで散々「信長は瀬戸物を売りたかっただけ」と言ってきたのに、何をいまさら瀬戸を支配下に置くんだ?瀬戸は尾張にあるんでしょう?という方もいるかもしれません。

でも、尾張と三河の国境にある瀬戸は、当時、今川義元の支配下にあった松平氏が統治していたのです。

道三にしてみれば、瀬戸物を売るも何もまだ瀬戸を支配下に治めていないのに話にならん、瀬戸を支配してからモノを言ってこい!というのもごもっともな話ですよね。

かくして、この聖徳寺会談後、信長は瀬戸物ビジネスの実現の第一歩として、織田家の統一、尾張の統一、そして瀬戸の奪還に向けて動き出すのであります。