1568年(永禄11年)9月、信長は足利義昭を奉じて、上洛を開始します。
信長は足利義昭を奉じたこの上洛によって天下統一の第一歩を作ったと言われていますが、「信長は瀬戸物を売りたかっただけ」説をとる私としては、天下統一ではなく、瀬戸物を京都で売るための第一歩だったと考えています。
当時、室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久秀に殺害され、義輝の従兄弟の足利義栄を傀儡の14代将軍に据えていました。義輝の弟であり本来次期将軍候補であった義昭は京都から脱出し、各地の大名を頼って上洛の機会を伺っていました。朝倉氏などが義昭の上洛支援を快諾しない中で、細川藤孝、和田惟正が仲介に立ち、信長に対して義昭の上洛支援を申し込んだ。そして信長はこれを利用して京都に進出することを決断します。
9月7日に岐阜城を出発した信長とその勢力は、途中、上洛の協力を拒んだ南近江を支配する六角氏を退け、9月26日に京都に入ります。京都の実験を握っていた三好三人衆も信長の軍勢を前にあっさりと退散し、義昭の上洛は成功しました。そして義昭は第15代室町幕府将軍に就任します。義昭は上洛を成功させ、将軍の座に就けてくれたご褒美として信長に副将軍か管領の地位を与えると伝えます。
しかし信長はこれを丁重にお断りします。
その代わりに、堺、大津、草津に代官を置く権限をもらっています。
これは瀬戸で生産した瀬戸物を京都に運ぶために重要な琵琶湖の水運の拠点としての大津、草津、そして海外ともつながる国際貿易港であった堺を押さえることで、瀬戸物の流通ルートを確保することを重視したのです。
そして信長は翌10月には領国内の関所を廃止しました。
街道にあった関所を廃止するだけでなく、道路を広げ平らにするなど道路整備も行い、瀬戸物流通ルートの整備を進めたのです。
こうした信長のる瀬戸物販売を拡大するための行動は、その後、幕府の将軍として力をふるうために信長の力を利用したかった義昭との軋轢を生むことになります。